テ・レ・テ・レ - 天場一郎の数式
1‐1 天場一郎、隠れる
「はぁ……」
俺は溜息を吐く。楽しいはずのデートで胸は苦しく、足取りは重い。
まあ、実際、ジャンボメニュー挑戦をハシゴしてったらこうなるものだろう。過酷な労働を強いられた臓器が苦痛を訴え、数キロ単位で一時的に体重が増えているのだから体は物理的に重さを訴える。
オミの奴、あれだけ食ってよく太らないものだ。ガリガリに痩せてるという程でもないが、常軌を逸して食いまくってる割にはさして肉が付いているように見えない。大食いタレントなどは痩せている人も多いけれど、あいつもそのクチなのだろうか。それとも余剰カロリーはすべて胸へと吸収されてしまっているのだろうか。
あいつは食欲も異常だが、おっぱいはそれ以上だからな。薄着になってきたこの時期は特にやばい。去年から比べても成長率がなんとか景気とか名付けられても不思議ではない。布地を押し上げ、押し広げ、はちきれんばかりの胸部は日日その形を変えて行きつつある。
胸に吸収しきれなくなったら一気に膨らんでしまうということもあるかもしれないが。欧米系女性が結婚してしばらくしたらものすごく太ったなんて話もよく聞くし。というか、母の関係であちらの女性の知り合いもいるのだが、アルバムなどを見せてもらうとすごいことになっていた。自分の母親に見慣れていると人間なんて年齢くらいじゃそう変わりもしないのかな、なんて思ってしまっていたものだが、そんな幻想はあっさり打ち砕かれた。泣きそうになった。それにしたって、数百キロ単位で増えるのはいくらなんでも酷い。さすがにそれは極一部だろうけれど。
と、なんで欧米女性の話に流れそうになったのかといえば、共通点はもちろん胸だ。
顔に関してはむしろ和風と言い切っていい。なんとか小町とか呼ばれても問題ない。まあ今時じゃないが。幼い顔立ちに、豊満な体というのは一部の趣味の人には受けるらしい。俺にはまったく理解できないが。
さておき、オミの場合は、食欲も日本人の規格から十分に外れている。なにしろ、今現在オミはケーキバイキングに挑戦している。それだけ聞くと女の子らしいなあなんて思われるのかもしれないが、直前に餃子、お好み焼き、ラーメン、オムライス、ピザ、ハンバーガー、かつ丼、ステーキ、ずんだ餅とそれぞれが十人前を優に超える分量をやっつけている。それに付き合って普通サイズだけ食ってた俺が気持ち悪くてふらふらになってしまったくらいだ。俺はいたって普通の胃袋しか持ち合わせていない。正直に言えば、後半は臭いだけでも戻しそうになり水だけしか入らなかった。
それも限界を超え、水さえのどを通らなくなった頃、さすがにオミも俺の心配をしてくれていたのだが、そこにオミの女友達が「ウチらと甘いモン食いに行く?」と一声掛けていったらすぐに乗っかってバイバイされてしまった。心配してくれなんて言わないけど、してくれないと拗ねてしまいたくなる。
甘い物は別腹なんてよく言うけど、何かもう未知の器官でも仕込んでるんじゃないだろうか。とてもじゃないが説明がつかない。ていうか、よく考えたら俺と甘いものも食ってるじゃないか。ずんだ餅。別腹の別腹なのだろうか。いずれにせよ尋常でない。
まあ、それを言ったら俺の方は正真正銘人間とは思えない体を持っているわけだが。
天場一郎は分裂する。
今では精神医学でも言葉として使われなくなった分裂病のことではない。ちなみに、今は「統合失調症」。多重人格は「解離性同一障害」。もちろんそういう話でもない。肉体そのものが複数に増えていってしまうのだ。形状・色相・質量の同じまったく同じ人間が現れるので、分裂というよりはコピーと言った方が良いのだろうか。もちろん原生生物のようにひっきりなしに分裂しているわけではない。分裂には一定の法則がある。その一例を挙げよう。
もちろんここにいる俺はオミが呼び出した方だ。
俺が初めて分裂した時のことはよく覚えている。オミこそが俺の初めての彼女なのだから。
そして、それはホンタイにとっても初めて彼女ができる瞬間となるはずのことだった。
シチュエーションは放課後の校舎裏。目的も告げられず呼び出される俺と、何かを告げようとしつつも口をもにょもにょと動かすだけのオミ。待ち構えていながらもその瞬間を先送りにすることを考えているのか、顔を伏せ気味にしているオミは今まで見たことのない人のようだった。日はまだ高いのに、頬といわず顔全体が赤く染まっていた。おそらくは数限りなく繰り返されてきた告白シーンというヤツなのだろうと本能でそう判った。
「一郎ちゃん」
いつものようにそう呼びかけられた。だが、いつもその後に続けるような軽口の一つも飛び出さない。何度も言葉にならない声を漏らしながら体を硬くしていく。残暑のせいだけではない汗がぷるぷると飛び散るのではないかというくらい細かく振動している。
いや、それはそう見えただけなのか。震えていたのは俺も同じなのか。やがて震えや硬直は俺にも伝染していったので、どの時点でというのは後から思い返してみてもわからない。そのくらいオミもそして俺もその時は必死だった。
阿佐島緒未は俺が小さい頃に遊んでいた女の子だ。高校受験の時に再会して、揃って入学できてからは屈託も無く遊ぶ、仲の良い友人となっていた。周りから冷やかされる程の関係でもなく、ごく普通の友達だったのだ。
少なくとも俺からオミを意識したことはなかったが、オミの方は密かにその胸の奥に何かを育てていたのだろうか。
それにしても胸大きいな。
揺れる胸を見ていたら俺の方は幾分落ち着いてきて、余計な考えも溢れてきた。
俺はオミをまじまじと見る。ここまできて勘違いというオチもなくはないが、刻一刻とその可能性は削られていっているのはもう誰が見ても明らかだ。もしもオミが告白をするとして、俺はオーケーするのだろうか?
気は合う方で、学校や学外のことでもよく話してる。学力に大きな差はなく、くだらないことでも意見が大きく食い違うこともない。同じ時間を過ごして行く相手としては特に問題は見当たらない。見た目にしても平均以上の可愛らしさはあると思う。実際、うちのクラスの男子評価も低くはない。高校入学から半年以上経ってもアタックしたヤツがいるとは聞かないが。いたら玉砕ってことなので言わないだけかも。男子的にプライドは優先したいだろうし。
それにおっぱいだ。今よりも少しは小さいが、当時でも超高校級であったのは間違いない。おっぱいに釣られただけで、そこまで行動できるヤツも少ないのかもしれないが。
幼なじみの友達から、恋人へシフトして付き合い始める……知り合いのサンプルは皆無だが、まあ漫画なんかじゃよくあると言えなくもないのか。そんな普通の恋をするのも悪くない。むしろ普通というのであれば、俺は望むところだ。
そう覚悟を決めると、まだもじもじとしてせわしなく目線を上下させている彼女をそのままにしておくのも可哀想な気がしてきた。文字通り手を差し伸べて上げるべきじゃないかと。その告白は受け入れられる、勇気は報われる、そういう未来を指し示すために。
もしも勘違いなら笑って済ませば良い。どんなに笑われたって構わない。オミの苦しそうな様子をこれ以上見ずに済むのなら。
だけど、もし、その手を取ってくれるのならば――
こっそりとズボンで汗を拭った右手を、俯き加減を続けているオミにも見えるように伸ばす。オミが自分から握る余地は残す。ここまでの覚悟を無駄にもさせたくなかった。
オミはすぐに俺の行動に気づいて、はっと顔を上げる。しかし、絡んだ視線は一瞬で。お互いが顔を逸らしてしまった。なんとも言えない沈黙に心臓の音だけが大きく聞こえた。やがて、俺の汗ばんだ手にひんやりとした感覚があった。
ただし、左手の少し上、手錠やら縄やらがよく似合う位置に。
「天場! 掃除サボってんじゃないよ!」
ゼロ距離で炸裂した怒鳴り声は硬い鉄板でぶん殴られるようだった。この硬質な声は我らが委員長だ。確かに、いつものように掃除をサボっていたので、いつものように追っ手が掛かって、いつものように委員長に引き戻されてもおかしくはなかった。
だけど、このタイミングでなくても……。自身の不明を棚に上げ、委員長の間の悪さを恨んだ。
次いで、手を取られていた俺の腕がぐいと引っ張られる。
「コロちゃんずるい! 一郎ちゃんはわたしの!」
その時覚えた違和感は忘れられない。委員長に掴まれた手から力はとっくに抜けているから見逃してくれたのかと思った。
だから慌てなくても良いよと言おうとしたが、オミは手近にあった俺の右手をぐっと引っ張った。勢いがつきすぎてくるりと回転してしまった俺が見たのは、驚愕に目を見開く委員長と奇しくもその顔真似をしているようにまったく同じ表情になっている俺。意外と力のある委員長にがっちりと握られた左手がとても痛そうだった。
そして、ぽかんと口を開け、右目でこちらの俺たちを、左目であちらの俺たちを追おうとしている、俺の姿が中央にあった。
2人の少女と2人の俺。そして、それを見ている3人目の俺がそこにはあった。
というわけで高校での初分裂は徒舟委員長に奪われて、オミは後手に回ってしまっていたのだった。
それでも、俺はオミが初めての彼女だというのは譲れない事実だ。
最初に断っておくが、この分裂に関してはこの短い物語の中ではなんの解決もしない。そういうものだと思っていただきたい。
こんな現代科学にケンカ売る現象が我が身に起こっていて大丈夫なのかという疑問はあるだろう。だけど、俺の母親代わりである果無子さんが研究を進めてくれているので俺は心配はしていない。だから安心して欲しい。でも、あの天才の果無子さんでさえわかっているのは半分だけというのだから豪いことだ。逆に言えば、超人である果無子さんでさえわからないことを凡人が悩む必要はないということでもある。凡人代表格の超凡人な俺としては気にしないことこそが責務を果たすということなのだ。
オミたちのことは俺たち分裂体を引き出すパートナーということになるが、そのパートナーが引っ張る以外のいかなる方法でも分裂は起こらない。
ただし、元に戻りたい場合は簡単だ。俺たちがホンタイと呼んでいる分裂元の一郎に触れば良い。そうすると度の合っていない眼鏡のせいで二重写しになっていた像が、するすると眼鏡度調整器でピントが合うようにしてひとつにまとまる。分裂時もそうなのだが、肉がぐちょぐちょと溶けて血が噴出すスプラッターなことにはならない。その様子を見た人によると『まるで最初から一人しかいなかったようにしか感じられなかった』ということだ。理屈はともかくとして、肉体的接触をもって、元通り一人の天場一郎になるわけだ。
たとえばこんな風に、
「よう、戻ったぜ」
ぽん、と肩を叩く。
たったこれだけで終わりだ。こちら側の意識が薄くなり、あちら側へと統合される。これまでオミと過ごした時間が消えるわけではない。俺の肉体が体験した経験が、一人でいた時間と平行して経験した記憶へと変わるだけのことだ。白昼夢というものを見れたら同じことなのかもしれないと、統合されている時の記憶も引き継いでいる俺は思う。
我思う、故に我あり。そう言ったのはデカルトか。世界史のテストで間違えたなあ。
と、そんな余計なことを考えているのは消えてしまっていない俺自身だった。掌にはうっすらとした現実味のある湿気と温もり。自分と同じ体が発生源だとしてもちょいと嫌な感触がある。
あれ? 戻らない? なんで?
1‐2 天場一郎、消える
ワインは、子宮頸部にしない
「はぁ……」
俺は溜息を吐く。
コロ……なんで怒ってたのかなあ。
俺のクラスの委員長である
委員長としてのコロは成績優秀というよりはリーダーシップの強いタイプの女の子だ。それも頼れる姉御肌というよりは服従を要求する仕切り屋が近い。敢えて悪い言い方をすれば、「おっかない女」ということになる。
高校に入学してからずっと同じクラスになっていて、事ある毎に突っかかられてきた。この一般人的な一般人、普通に学校生活を送る俺のどこにいちゃもんの付け所があるのか。普通、あの手の口うるさいキャラは、不良とかに正論ぶちまけてウザがられて、ふとしたきっかけで優しさを見つけて恋に落ちたりするんじゃないのか。漫画とかじゃ。
まあ、漫画の普通なんて当てにはならないもんだ。普通に考えりゃ怖くて見てみぬ振りだよな。そもそもそんな絵に描いたような不良は俺の学校にはいないのだけど。
付き合う前など、怒鳴り声を聞かない日はなかった。ちょっと普通に掃除サボったりしたくらいで、逃げ出した奴隷を追いかける牧場主も顔負けのマンハントが始まる。まあ、その辺りは付き合ってからも大して変わっていないのだけど。
そんなだから誰も、俺とコロが付き合うとは思ってもみなかったことだろう。俺も自分がこんな体じゃなかったら絶対ありえない取り合わせだと、今でも思っている。
天場一郎は分裂する。
コピーを取るようにまったく同じ人間が現れる。もちろん、現代科学じゃ説明ができない。他にこんな現象が起きたなんて話も聞かない。そりゃ、ドッペルゲンガーとかオカルトの世界じゃよく聞く単語だけど、そんな誰が見たのかわからない話じゃなく、この町にくればいつでもかはともかく誰でも簡単に、それも、どこそこに同じ人間がいたなんてトリックで再現できそうなもんでもなく、分裂のその瞬間を見られる確固とした事実の話だ。
ビデオに撮ってもらっても別に構わない。まあ、俺は国際レベルで保護されてるので、黒い服にサングラスの怖いおっさんに安くない電化製品を壊されても知らない。
分裂ってもたいしたことないし、ごく普通の高校生を撮ったって面白くもなんともないはずだけど、そのリスクと引き換えにして良いならどうぞ。
とにかく、現在確認されているだけで4人。分裂元を含めて最大5人の天場一郎が生息していることになる。
そして、このややこしい状況の発端となったのが、俺の彼女である徒舟小古流ということになっている。
俺、というか分裂前の天場一郎と徒舟小古流の出会いは、中学時代まで遡る。
「天場……?」
入学後のクラス自己紹介をし終えた俺が、涼やかな声に不穏さを込めるという奇妙で器用な呟きに振り向くと、隣の席から睨みをくれていた女子と目が合った。この手の反応には、正直、疎ましさを感じたが、普通に中学生生活を送るなら波風立てず仲良くしておいた方が良いだろうと営業用スマイルを浮かべて応対してやることにした。
「ああ、俺の名前は天場一郎……って自己紹介したとこだよな。まあそんなわけで、よろしく、お隣さん」
「ふぅん……あたしは徒舟小古流。あんた天場果無子博士って知ってる?」
「博士? ああ、それは俺の母さんだよ。そうだよな、博士だよな、あの人」
仰仰しい呼び名に面食らったが、すぐに顔が思い浮かんだ。家ではただの果無子さんなのだが。
「母さん? 天場博士は独身でしょ。結婚もしたことないはずだし」
大嘘つきを蔑む氷点下の視線だった。
初対面とはいえこれから学び舎を共にする相手に向ける態度じゃないなとは思ったが、まあ、我慢する。そういえば、公開プロフィールではそうなっているのかも。甥を引き取って家族同然に暮らしているとか普通すぎておおっぴらにする必要なんてないというのが果無子さんの見解だった。
「よく知ってるな。まあ、結婚しないで子供産んでる人も多いはずだけどな」
そう言うと小古流のちょっときつめの顔が赤くなった。自身の想像力不足に恥じたのか、それとも、生生しい行為を連想したからなのか。ともかく、その見知ったばかりのクラスメイトはホームルーム中だというのに声のトーンを抑えるのも忘れて、
「そ、そういう意味で言ったんじゃない……」
すっきりとした清流のようだった声が泡立つように濁るのが面白かった。中学の3年間でコロが見せた隙はこれだけだったようにも思う。この時のやりとりが原因でそれ以降の暗黒時代が用意されてしまったのだろうか。
「いやいや、確かに実の母ってんじゃないんだ。ええと、母親代わりって言った方が良いのか。小さい頃に俺を引き取って育ててくれたのが産みの母の妹であるところの果無子さん」
家族構成変更の経緯はぼかした。腹を痛めてくれた母は死んで、血の繋がった父親は母と離婚した後どっかに行ったまま何年も顔を見ていない。いや、離婚する前からほとんど顔なんて見てないか。写真すら残っていない。
感傷するほどのできごとでもないが、他人にわざわざ言って聞かせることでもない。
コロは「あっそ」とだけ呟くと、それきり話しかけてはこなかった。博士と言われてもピンとこなかったような俺にインタビューしたところで益はないと判断したのだろう。当時の年齢からしてもドライすぎるのではないかと心配してしまう。
だが、それで縁が切れたわけではなかった。というか、むしろ俺にばかり突っかかってくるタイプになったような気さえする。掃除サボったり、課題提出忘れたり、うっかり備品壊したり……まあ確かに俺が全面的に非があることばかりではあるが、普通に中学生やってればよくあることだと思う。
それなのに、何かにつけて「天場、あんた博士の甥ならちゃんとしなさいよ」と親の敵のように突撃してくるのだ。果無子さんは俺の身内なのだが。
だいたい、コロが心酔しているような"偉大な"業績はともかく、私生活は俺の方が良く知っている。家での果無子さんはもっと凄いというか酷い。俺の学校での姿をすべてと思わないでほしかった。手のかかるこどもを世話しているようなもので、家庭で疲れた反動なのねかわいそう、と見逃すべきだ。しかし、コロの天場果無子博士への信奉っぷりは凄まじく、何を言っても火に油だっただろう。
中学を卒業し、高校に入学しても腐れ縁は続いていて、あろうことかクラスも2年連続で同じだったりしている。俺とコロにとっては中学5年みたいなものだ。
決定的に変化が訪れたのはコロ暦では中学4年のこと。オミの告白未遂事件のあの日だ。
「天場! 掃除サボってんじゃないよ!」
少し前に時間を遡ると、オミに告白されるかもとそわそわしていた俺は掃除どころじゃなくて見かねたクラスの男子が交代を申し出てきたので代わってもらっていたのだが、それですらコロには気に入らなかったようだ。俺の代理には事情を説明して「がんばれよ。あと、明日カツサンドな」と言ってもらっていたのだが、小学校時代まで含めて人生の半分近くを鉄の女クラス委員長として過ごし、女帝の風格さえ出てきたコロには逆らえなかったのだろう。詰問も拷問も行われた時間的空白はなく、友人の幸福よりも保身を取ってあっさりゲロったとしか思えないがそういうことにしておく。頭の中がホワイトアウトする吹雪のスピードで突っ込んできたコロに手を掴まれた。
そのままぐっと引き寄せられると、俺は普通に暮らしていたら滅多に拝めないものを見ることになった。
自分の背中だ。後頭部から踵までしっかりと見れたそれは鏡なんかで見るのとは少し違っているなと、異常事態に対してそんな風な考えが去来した。
繋いだままのコロの手がわなわなと震えていた。その動きで多少我に返れたのに、続けざまにオミが分裂をさせたのでまた混乱が襲ってきた。
「えーっ! すごーい!」
などとオミが歓声(?)を上げている。真ん中に立っている俺はどうしたらいいかわからずにおろおろとしている。
だが、コロはそんな状況で、震えるほどの衝撃を受けながらも、じっと押し黙ったまま俺の手を握っていた。
その後、果無子さんに相談して取り合えず分裂元である本体と再接触すれば分裂状態を解消させられることまではわかった。
オミは抱きついて離さなかった。あの胸が押し付けられてあっちの一郎は満更でもなさそうだった。コロ専用の分裂体となってしまったこっちはそういう体勢にさえなってもただの無いものねだりをするしかなかったわけだが。まったくもって、いやらしい気持ちすら起こらない鉄板の女だった。
こんな物理法則がひっくり返りそうな現象が世間に漏れたら大変だと思ったし、実際そうなりかけた。完全に俺をモルモットとして扱うような流れまでできかけたらしい。そう言えばと思い返すと思い当たる節がいくつもあった。
一見紳士風のスーツ姿が、一見紳士的に接してきて、一見普通の契約用紙の細かいところで契約内容にさりげなく「肉片の一片に至るまで有効活用されても構わない」なんて書かれた契約書にサインさせされそうになったこともあった。嫌がると力尽くになったり。人道主義などどこへ行ったのか。
あのままいけば触媒であるオミやコロも危なかったかもしれないと思うとぞっとする。
ギリギリの所で頼れるものなんて何もないのだと絶望に陥りかけたところに救いを齎してくれたのは果無子さんだった。その時まで知らなかったのだが、彼女はその世界では絶大なカリスマであり、その影響力は政治経済界にも強く広く深く及び、彼女が一言言えば何百万人単位で命運が左右されるようなとんでもない人だったらしい。
果無子さんは数学者だ。数学と聞いて数字遊びしているだけなのに実益があるのかという疑問を俺も持っていたのだが、結構多分野に影響を及ぼしているらしい。特に果無子さんは最も得意で特異な業績を残したのが数学というだけで、評価実績ともにノーベル賞の自然科学全部門を何連覇してもおかしくないくらいの人だとか。パテントで儲けすぎてるから賞は必要な人にあげてくれと辞退している噂まであるらしい。
そういうことはコロが熱くなり過ぎた状態で語っていたことなので、ホントかよと半分流して聞いていた。
だけど果無子さんがすごいというのは俺にもちゃんとわかった。いくつかの俺に関する法律や条約に関与していたし、果無子さんは天場一郎が分裂する謎を解くのは自分しかいないと宣言して、全世界を相手に実力で黙らせてしまったからだ。
「天場一郎のことはワタシに任せてもらいたい。もし異論があるなら、ここに研究成果がある。もっとも完成には至っていない、半分といったところだが……最低限それを理解できるくらいになってから同じ舞台に上がってきてもらいたい」
と挑戦状を突きつけた。その名も「アメーバ予想」という。どんなことが書いてあるかは普通の高校生である俺にはさっぱりわからない。
なにせ、この理論が正しいのか間違っているのかどうかすら、数学者を始めとした数多の科学者が躍起になって挑んでもわからないというのだから相当なものだ。そして、まんまとアメーバ予想に夢中にさせることに成功した。
俺を調べると言ってもどうすれば良いのかなんて誰もわからないのだから、それならまだわかりそうなところから手をつけさせたということなのだろう。もちろん、過激に俺を誘拐してでも独自に研究したいという輩への警戒は怠らせていない。
で、果無子さんは今も必死になって研究をしているかといえばそうでもなく、適当に海外を流離ったりしていて、やる気があるのかないのかわからないような具合だ。完成したところで俺の問題が解決するわけではないし、もっとややこしいことに発展するかもしれないからこれはこれで構わない。
しかし、出会いからを思い返すに、なんで俺はコロと付き合ってるのかわからない。数年間をダイジェストで見せれば一緒に過ごしている時間の長さが際立つが、実際は恋愛発展要素なんて皆無だった。
デートであっても、冷たい手錠で繋がれて檻の中に放り込まれているという感じを受けることは少なくない。
いつまでも暗い気分に浸ってても仕方ない。早くホンタイに合流して楽になりたかった。果無子さんでもまだ解けない複雑怪奇な分裂システムだけど、元に戻るのに複雑な手続きがなくて本当に良かったと思う。
そう、こんな風にポンと肩を叩くだけでいいのだ。
ポン、と。
ポン、ポン、と。
ポンポンポンポンポン――
「痛ぇよ!」
振り返る顔は確かに俺なのに、俺じゃない。
「あれ? お前何してんの? ホンタイは?」
1‐3 天場一郎、増える
「はぁ……」
天場一郎は分裂する。
夜のお菓子は、妊娠中にコメントされている
最初に断っておくが、この分裂に関してはこの短い物語の中ではなんの解決もしない。そういうものだと思っていただきたい。
それはそうと、ソラとのデートを思い出すと決して甘くない純粋な溜息が漏れる。これは決して満足からくるものでないということは、俺の顔さえ見られればすぐわかることなのだが。
ソラ――
実際、どんな場所――例えば高級レストランなどへ行こうと、会計で困ることはないだろう。というか、一度そういうとこへ行ったらお付の方方とか申しやがるしゃれたもんがよろしくやってくれたようで現金もカードも出番がなかった。
そんなわけで金に不自由はしないわけだが、ソラと付き合って、世の中金がすべてじゃないのだということも俺は知った。
とはいえ、俺自身も日日の小遣い銭に汲汲としている普通の高校生とは事情が違っている。普通を標榜して止まない俺にとって真に遺憾ながら、経済的には止む事のない身分になってしまっている。俺の保護者である果無子さんが世界規模の金持ちというのもあるが、問題は俺の側にもある。
手を引かれて分裂する。
この冗談みたいな現象は俺の肉体のみならず、衣服や携行物に関してもある程度の範囲で影響を及ぼす。俺の分裂元であるホンタイ(俺たちはこう呼んでいる)とそっくりそのままコピーされるのだ。実験はしてないが、経験上、力を思い切り込めずに持てるものが限度だろうか。たとえば服とか靴とか。裸で出てこられても女の子も大変だろうし俺だって嫌だ。だからこれはこれで文句はない。
文句がないのと問題がないのはまた別な話で、「金が増えるのはまずい」ということが国家レベルの問題になった。同じ番号の一万円札なんてそりゃ偽札だろ。貨幣偽造は案外刑罰が重い。かと言って小銭ばかりジャラジャラ持ってもいられない。まあ、小銭は増えてもわからないだけで厳密にはそれも不味いってことになってるが。もちろん、悪気もないのに逮捕なんて真っ平だし、金がないのは問題がある。
そこで、果無子さんが政府と取り付けた妥協案というのが、「いくら使っても減らないカード」だ。いや、本当は「俺とセットで使った場合に限り、どんな状況であっても支払いできるカード」であって、限度はあるのだと思う。果無子さんが「これからはこれ使いなさい。いくら使っても大丈夫だから」と使用済み切手並にぽんと寄越してくれただけあってありがたみもイマイチだったりする。大体、「政府と」なんてのが胡散臭い。
果無子さんのことだから、本当に日本丸ごと買い上げてもお釣りが来るとか無茶なこともしてくれてそうなのだが、普通の金銭感覚を持ち合わせている俺は常識の範囲内でしか買い物をしないので試したことはない。まあ、他人より持ってるゲーム機の種類が多かったり、人気タイトルは必ず発売日に揃っていたりはするが、大金を渡された一般人の金銭感覚からはそう大きく外れていないものだと思っている。
見た目はクレジットカードっぽいのだが、対象を選ばずに使えて電車やバスにも乗れる。カードが使えない店とかでも使える。普通のカードとの違いはその程度だろうか。実際には無理やりカードを使おうと思っても手続きが煩雑すぎて滅多に使えたもんじゃない。大体、その状況で使うと俺が分裂人間だと宣伝して回るようなものなのだ。実はひと悶着あって俺の存在は報道規制の対象となっている。とはいえ、後手に回ったせいですでにわかっている人にはわかっている。だが、わざわざそんなこと触れ回りたくない。俺の中の忌まわしい記憶がそう言っている。面倒を抱えるよりは使える店を探した方が手っ取り早い。
そんなわけで、現金を一切持たないがゆえに財布の中身と相談するということとも無縁なのだが、俺が普通の高校生であることには違いない。そんな俺が純粋培養なお嬢様の細愛空とどう接点があったのか。
ソラとの出会いについて想いを馳せようとするが、今ではうやむやになっている。
というのも、コロとオミよって分裂された直後、俺はちょっとしたモテ期に突入していたのだ。普通の人間ならば人生に2、3回は訪れるという伝説のアレだ。
きっかけはオミが自慢げに友人連中相手に分裂統合を繰り返し披露していたことだった。その頃は付き合っていることにもなっていたので、「ほら、ほら、わたしだけがこれできるんだからね。これって運命じゃね?」なんて惚気られていたのだ。オミが付き合い始めのボケ頭でのんきに構えている間はまだ平和だった。その内、「私にもできる」と言い出すチャレンジャーが現れなければ。
ただ、俺も手を引かれた経験が17年間(当時は16年間)一度もなかったわけでもなく、当然誰でもこういうことができるとは限らなかった。最初の一人は敢え無く失敗。冗談交じりに挑戦した二人目も失敗。
こう連続で失敗すると人間面白いもので、俺自身への興味とは別に、自分はどうだろうと試したくなってくるらしい。たちまちクラス内で俺の引っ張り合いが始まった。男連中まで競って俺の手を取りに来るので気持ち悪くて仕方なかった。
オミはさっさと自分だけの分裂体を引っ張り出すと、誰にも触らせないようにしていたが、コロはといえば、騒ぎを余所目にマイペースに過ごしていた。中には結構可愛いコも混じっていたのに、やきもちも焼かず、そ知らぬ風で。コロ担当が事あるごとに愚痴っているようだが、気持ちはわからなくもない。俺もその時は天場一郎本体とともに同じ感覚を共有していたのだから。
全員の通過儀礼が終了してしまえば事態は収まるという楽観視は通用しなかった。俺のクラスが終われば、騒ぎを聞きつけた隣のクラスがやってきた。それが終わらぬ内に、たまたま居合わせた別のクラスの奴が広めたりと、騒動は一向に収束しなかった。終に学校中に伝播すると、他校やまったく学校関係でない暇人の町民と、瞬く間に個人ではどうしようもないレベルにエスカレートしてしまった。
当時からマスコミ関係には自主的に規制してもらっていたのだが、口コミまではどうしようもない。やがて騒ぎが大きくなると、社会現象として無視できなくなってきて、報道という逃げ道ができた。俺自身にスポットを当てなければいいだろうとメディアが集まってしまったら手がつけられない。「あの町で何が起こってるのか?」という好奇心が「天場一郎という人が原因らしい」という情報によって爆発してしまった。
数週間もすると、普通に町を歩くのにも危険を感じるようになった。分裂パートナー志願者が危害を加えるつもりまではなくても、大量の人間が押し寄せるというのはそれだけで脅威なものだ。むしろ、人死にが出なかったのが奇跡なくらいだ。男性が少なかったというのもあるのだろうか。普通に考えて男同士というのは抵抗が大きいかもしれない。
そんなわけで、普通に登校したとしても、あっという間に大勢の女性に囲まれてしまうことも少なくなかったある日のこと。
ちっとも嬉しくない状態でもみくちゃにされていると、スピーカーを通した女性の声が響いた。後で聞いた話ではミニパトが停まっていたらしい。
「天場一郎クンに触っているみなさん、速やかに天場一郎クンから離れて触らないようにしてください。本日、天場一郎クンを濫りに分裂させようとした者には刑事罰が与えられる臨時法案が可決されました。懲役にして3年以上。大変重い罪です。悪質であったり、人を傷つけまたは殺してしまった場合は殺人よりも重い量刑が科されます。なお、分裂の原因は特定の人間関係に限定されています。我我はそれを恋愛を契機とした――ええと、一郎クンを愛しちゃった人だけということです」
罰則を読み上げている間は、なかなか騒ぎは収まらなかったのだけれど、気のせいか分裂原因が聞こえたのを境に、ほとんどの連中が手を引っ込め、すでに触れてしまった一部の人間も決して握ろうとはせずそろそろとおっかなびっくり手を引っ込めていたのにはほんのちょっぴり心がざわついたものだ。まあ、逆にガチで掴んでくる男がいなかっただけラッキーだと思うことにしている。
やがて人垣がばらけていき周りに誰もいなくなった。
と思っただろう、ホンタイは。
ホンタイに触れている者はいなかったのだから当たり前だ。
だから尻餅をつきながらも俺の袖をしっかり掴んだ手を離さずにいる細愛空が見えていなくても仕方ない。
「はい、あなたセーフ」
ミニパトからそう告げられて初めてホンタイも俺たちの存在に気づいたのだが、知らない間にタマゴでも産んでいたとでも言いたげなあの顔は笑えた。
そして、俺の手を掴んでいた女の子は座ったままで口を開きかけ、ホンタイと見比べておもむろに立ち上がり、頭を下げかけてスカートの乱れを直してみたり、その間に俺だけが座り込んでるのも変なので立ち上がるり、それを追いかけて見上げる形になるとメガネのズレが気になったのかフレームを抑えてる。俺とホンタイは完全にマイペースな仕草をなぜかほほえましく思いながら見守った。
「初めまして、細愛空と申します」
ようやくぴしりと正対すると、少女は自己紹介をした。びっくりするくらい色の白い女の子だった。黒目勝ちの瞳は穏やかで、通った鼻筋の下にはふっくらとした唇が秋の色づきを映しているかのようだった。制服は見たことがないが、線の細い体に合った仕立ての良さが際立っている。お嬢様ってこんな感じかなと思わせるそんな美少女だった。
すべてが薄く透き通るようで、幻を見ているだけなのではないかと錯覚も起こしそうだった。しかし、その細い指先は俺の袖口をしっかりと挟み込み別世界を超えてこちらへと繋がっている。
生まれて初めて見蕩れるということをしていたら、いつの間にかスーツを着込んだ男女に取り囲まれていた。口口に「お嬢様」「空お嬢様」と呼び掛けるところを見ると、ははあ、これが使用人というやつかと納得した。ソラはというと、手を離さずに気絶していたのでそれからひと悶着あったのだが。
俺の生活基盤には存在しなかったタイプの女の子で、どうして今こうして付き合うことになったのかさっぱりわからない。
どさくさに紛れて誰かが分裂させたのをソラが自分がやったと言っているだけなのではないかとも疑ったのだが、彼女が俺の手を引けば分裂が起きてしまうのが何よりも揺るぎない証拠となった。
翌日には転校までしてきてしまうのだから恐れ入る。入れ込んでもらう立場としては嬉しくもむず痒くもあるが。
ぐしゃぐしゃになった頭もホンタイに統合されてしまえばしばらくは忘れていられる。ホンタイにとっては過去の経験のひとつになるだけだ。
汚い路地を抜け、我が家の門に俺と同じ姿の男が立っているのを見つけてほっとする。
「おい、どうしたんだ? さっさと統合しようぜ。今日は疲れた……よ?」
だが、前庭で4人もの俺が立ち並んでる様を目にするとさすがにぎょっとした。分裂したまま俺たちが集まることは少ない。俺同士で話してもしようがないのですぐ統合してしまうのが常だからだ。
どうしたんだろうと疑問には思ったが、とりあえず俺は統合することにした。ポンと肩でも叩けばそれで終わりだ。ほら、こんな具合に。
「あれ? 戻らない? なんで――」
「「「だ、誰だお前!」」」
え? なんで?
1‐4.天場一郎、揉める
ソーダのどのように多くのガラスは、ティーンエイジャーを飲むのでしょうか?
「はぁ……」
トナとのデートが終わって、いつものように帰宅した。
トナ――
彼女たちに引っ張り出され、彼女たちのために時間を過ごす俺たちを表すにはぴったりくる。くるのだが、少少言い難いのが難点だ。もっとも、すぐにホンタイに統合してしまうのだから気にする暇もない。ほとんど使われていない死語のようなものだ。
楽しいはずのデートで決して良い意味でないため息が漏れてしまうのには理由がある。
トナとの付き合いは体が資本だ。
いや、エッチな意味でのことではない。やたらと体を使うデートコースになるというだけのことだ。陸上選手でもあるトナは普段から体を動かすことが好きだからしようがない。
だからいかがわしい所でいかがわしい汗を掻いてきたとかそういうことではない。むしろそっち方面はさっぱり進展しない。
俺とトナが特に異常というわけではなく、他の分裂体も似たようなもので、最長で1年以上も付き合ってるのに誰もキスすらしたことがない。恥ずかしがって隠しているということはありえない。統合されると記憶の共有が生まれるのでそこは誤魔化しようもないからだ。また誤魔化す理由もない。どいつもこいつも俺なのだから、誰が誰より先に進んだとか意味のないことだろう。
侵すべからざる禁忌、なんて大げさに考えているわけでもないのだが、なんとなくしてはならないという意識がこびりついてしまっている。これは俺たちが分裂体だからなのだろうか。よく聞く「大切にしたい」なんて嘘臭いものとはまた別種の壁が一般的な恋人らしい関係とを隔てているに違いない。ホンタイは我関せずというかトナたちに対しては他人事を貫いているので本当にそれが理由なのかは確かめようもない。
それでも、普通の健全な男子ならば男女関係にも普通に興味を持つわけで。いや、男子だけではなく女子もそうに違いない。
特にトナはそういうことにも年相応以上にポジティブだったりする。
思えばトナは出会いからそうだった。
コロ、オミが天場一郎を分裂させた直後に、果無子さんが手を回して速やかに緊急成立した分裂禁止法。それにより天場一郎を分裂させた者には厳重な処罰が下ることになった。そして、そのギリギリ滑り込みで分裂させたソラが天場一郎最後のパートナーとなる……はずだった。
ソラの件から数ヶ月、分裂を見物しようなんて物好きも見なくなった3学期も始め。寒さに縮こまりながら登校していると、「テンジョー先輩!」というややハスキーな声とともに、ぐりんと顔を覗き込む冬らしからぬさりとて不自然でなく日焼けした笑顔に視界を占拠された。
しかし、余りに滑らかかつダイナミックな動きで日常へと割り込んでこられたので、驚くのも忘れた足は歩みを止めず、思考はあらぬ方へと走った。
「テンジョー先輩」とは誰のことかと。
だが、太い眉毛の下で光る力強くも邪気のない目がこの俺を捕らえてるのは明白で、3歩の内に「天場」の音読みなのかと理解した。
「俺はアメバだよ。ていうか、誰?」
この時はまだホンタイが受け答えしていたのだが、当然ながらそれは俺の記憶でもある。よく見るとすらりとした体をくにゃりと曲げた少女はかなりの長身で、バレーやバスケでもやっているのかと思った。
「あ、そうなん? メールで見たから読み方まではわからんかったよ」
悪びれもせずにそう言うと、ケータイでメール添付画像を見せてくる。そこに写っているのは確かに俺だった。半年ほど前の騒動を思い出す。誰も彼もが俺のことなどお構いなしに押し寄せ詰め掛ける、人生――いや人類史上最悪のモテ期だった。しかし、騒動は鎮圧され、結局ソラが仲間入りを果たしたが、新たに俺を分裂させようという輩はシャットアウトできたのだった。
そう言えばあれはネットを使った口コミで急速に広まったんだったなと思い出し、一面識もない少女が嬉しそうに――何が嬉しいのかさっぱりだが――見せるメールを吟味してこういうことかと首肯する。
「へぇ、まだこんなの持ってるんだ。で、キミ誰?」
わざわざこんなものを見せびらかしに来たのだろうかといぶかる暇もなく、がっしりとした大きな両手で、力いっぱい俺の手を包み込んだかと思うと、
「よっ、と」
と、掛け声ひとつで一本釣り。宙を舞うような感覚に本能的に地面を探そうとして、信じられないという顔をした俺と目が合った。それは一瞬の出来事だったが、なぜか今でも覚えている。
「おお~、出てきた出てきた。やっぱ踏み込みと返しの強さが利いたか」
「……力なんてほとんど要らないんだよ。痛てて……受身くらい取らせろ。十人がかりで引っ張られた時の方がまだマシだった……だから誰なんだよてめえは……」
満足げに、くいっ、くいっと腰を捻らせているバカに言ってやった。
「でも、強く引っ張っても、ええと……分か……増え……わかめ……こうなるってことだよね?」
「〝分裂〟で良いよ。俺はあんたをどう呼べばいいかわからないけどな。あと思いつきだけでしゃべんな」
分裂のことをどう言い表せば良いのかすらわかっていないようなので補足してやる。人の話なんて聞いていなのかと思ったが「分裂、ね。わかった」と大輪の花のような素晴らしい笑顔で返事をされた。
「うん、優しくやっても乱暴にやっても分裂ができるなら、いろんな方法でやったら楽しくない?」
「俺は普通が良い人なんだよ。少なくとも実害があるやり方は楽しくない」
他の3人が特別おしとやかというわけでもないが、こんなのは無茶過ぎる。今この場には関係ないが、ソラは最初は触ったかどうかもわからないくらいだったのに、どんどん強引になってきていた。使用人たちがソラのためだけの空気を読みまくるのがまたややこしいことになっている。
「じゃあ、次はもっと楽しく飛ぼうか?」
「2度と飛ばすな! ていうか、完全に目的見失ってるだろお前、何しに来たんだ!」
あ、そうかと手を打ち鳴らし、ようやく舞い上がってたことに気づいたようだった。敬礼の真似事をしてにかっと笑顔を大きくさせた。
「よろしくな、テンちゃん。ボク、婁宿都波。今日からキミのカノジョだねっ」
そんな風に無邪気に手を差し伸べられたので、釣られて握手を交わしてしまう。改めて触れた手はやはり大きくごつかったけど、仄かに香る石鹸の香りも心地よく、なにより俺の手を包み込んで暖かかった。
「となみ――トナ、か。まあ、今後ともよろし……ってそんな場合じゃねえよ! お前ヤバいぞっ!」
「え? そうなん? 自分、変な病気でも持ってた?」
恋人宣言した男の手をパッと離してそう驚く。ただ、それほど本気で言ってるわけでもなさそうで、離したのは片手だけだ。さっさと現状を認識させようと俺は怒鳴る。
「違げぇよ! 俺を分裂させたら逮捕されるんだよっ!」
今度はきょとんとしてしまう。俺よりも体は大きいが1コか2コは下であろう幼さを感じる。俺たちの年代の1年は大きい。モノを知らない未成熟の危うさは初速の速い大砲のようなものだ。だが、婁宿都波は豪胆に牙を剥き出して笑った。
「なんだ、そんなこと?」
1年かそこらでで大きく違うもの、それはあるいは加速度的に失われる恐れを知らぬ超特急のような若さなのか。
結局、トナについては何らかの責任が問われることはなかった。増えてしまった現状を優先すべしという裁定が下ったからだ。
トナをたとえば死刑にしたとして、分裂してしまった俺はどうなるのかとか、先に分裂させていた彼女たちの嘆願があったこととか、事実上の立法者である果無子さんからも「デキちゃったもんは認めろ」という有難くも胸の辺りがチクリとくるお言葉を賜ったとかあったし、もちろん俺も自分のせいで誰かが辛い目に遭うのが嫌という普通の人道主義者なので異論はなかった。
こうして、「天場一郎を分裂させれば無罪」という既成事実ができてしまった。ホンタイはまたあの受難の日日が始まるのかとうんざりしていたらしいが、目立った変化はなく拍子抜けだった。
まあ、冷静に考えてみれば、誰が捕まるかもしれないことを好き好んでやるのか。確かに暴走族のような犯罪者予備軍や、死刑にしてくれと人を殺しまくる破滅主義者というのはいるのかもしれない。ただ、絶対数は少ないし、逃げ延びられると思わなければ遊びではできないだろう。
もしも分裂できなかったら……そんなイフの世界が花も実もあるうら若き女性の手を押しとどめているに違いない。そもそもメリットが皆無だとか、分裂即恋人というレッテルに尻込みしているということではないだろう。それを認めてしまうと普通の高校生には耐え切れない何かを、俺が直視しなければならなくなるから。
「はぁ……」
それにしても、とデートを思い出すとまた憂鬱な溜息が。
今日も顔が近づき過ぎる場面が何回もあって危うかった。さすがに口に出してねだられるとかまではまだないが、このままでは時間の問題のような気もしないでもない。この辺りの機微というものはホンタイも含めた他の天場一郎には伝わっていないようだが。
俺たちはひとつであってもひとつではない。微妙に。
俺たちはホンタイから分裂した存在であり、身体的精神的個性は同じ天場一郎という人物のものだ。俺たちが自分のパートナーに呼び出されていない状態では当然その時に応じた反応や考え方をしている。しかし、分裂前にホンタイの中にいて知っていることは俺たちも知り得ているし、俺たちが経験したことは統合のタイミングでホンタイにも伝わっている。ということは、全員分の知識経験を俺たちは共有していることになる。
だが、俺はトナに引きずり出された時、「またか」という感覚を毎回持っている。これが不思議な話で、たとえばオミに引っ張られるようなことを想像しても「またか」とは決して思わない自信がある。錯覚に過ぎないとしても、今こうして存在している「俺」というのは、トナを介してひと繋がりの人格なのだという確信がある。
他の一郎たちも同じように感じているかはわからない。ところが、それこそが第二の差異を証明している。俺たちの知識経験の共有というのは表面的なもので終わっていて、たとえば青い空を見たとしたら「晴れて気持ちがいい」とか「暑くて嫌だな」みたいな感情についてまでは見えてこない。
分裂して初めて、追憶することができる。
だからトナと俺の間に何もないことを他の一郎が知っていたとしても、俺がトナと過ごす時間でどれだけ心が揺れ動いているかは知らないだろう。
トナも何もそういうことがしたくて誘うとかしているわけではない。男の欲望に何も対策していないだけなのだ。しかし、無防備ではあっても無自覚ではない。いざ号砲が鳴ってしまえば躊躇いなく走り出すだろう。何より運動で鍛えられた肉体が持つ躍動感が時に俺には眩し過ぎる。そのまま目を瞑って道を踏み外しそうだ。
トナの肉体が持つポテンシャルの高さには戦戦恐恐としているが、反面、お互いムード作りが下手なのでなんとか凌いでいるという状況だ。
俺のため息には色んなことが混じっているのだ。
そんなことをつらつらと考えながら玄関前まで辿り着いていた。ところが、誰も帰ってきている様子がない。もうすぐ日も暮れるのに電気一つついていない。ドアノブを回してみると鍵が掛かっている。出かける前に干しておいた洗濯物も取り込まれていない。
ちなみに、3階構造の一戸建てが俺の家だが、現在は俺一人で住んでいる。本来は同居人がもう一人いるのだが、その人は俺の母親代わりになってくれている果無子さんと言って、現在は海外に在留している。俺の母であり科学者でもある果無子さんの研究の都合というのが表向きだ。
しかし、数学者がなんで海外を飛び回らなければいけないのか俺にはよくわからない。いや、物理や化学にも携わっている人なのだけれど、数学以外のことには興味が薄くて「やらせたいなら持ってこい」と言って憚らない。
今回の長期不在も「ちょっくら外のカズに当たってくる」と言っていた。しかし、本人は「別に直接的接触がなくてもネットがあれば良いじゃん」みたいなことも言っているのだが。きっと「面白いから」というだけの理由なのだろう。研究そっちのけで遊びまわっている姿が目に浮かぶ。
だから特に必然性もなくあちこちをふらふらしている。確か今は米国の西海岸辺りにいるはずだ。
そんなわけで、家事全般をやらなければいけないのは俺は、とっくに帰宅して忙しくしていなければいけないはずなのだが。
分裂体はすぐにホンタイに統合するからいないのは当然として、そのホンタイすらもいないというのはどういうことだろうか。第一、元に戻れないと俺が不便じゃないか。
とりあえず家にだけでも入ろうと鍵を探っていると、庭の方から俺を呼ぶ声が飛んできた。妖精が鈴を鳴らすように可愛らしく――しかし姿は見えず――、そして――目線を下げると――幼い声の主がそこにいた。
「イチロー?」
見た目だけで言えば小学生高学年がせいぜいといったところだろうか。明るい色のワンピースに大きな帽子を被っている。帽子では隠し切れない豊かな髪は金色をしていた。自然さを損なわない綺麗なブロンド。それは少女の顔立ちに明確に現れている西洋の血の影響だろう。
俺は自分の心臓がドキリと高鳴るのを感じた。年齢を超えた恋のときめきだとはにわかに信じられない。俺の名前を呼んでいたし、きっとどこかで会ったことがあるのだ。それにしても、こんなにも綺麗な子を見たのならば忘れられるわけがないのだが。
「えっと……キミ誰?」
記憶からは浮上してこなかったので、素直にそう聞いた。俺の名前を知っていても知り合いとは断定できない。トナだって一方的に俺のことを知っていたのだし。
しかし、俺の返答は少女に激烈な変化をもたらした。穏やかだった表情は引きつり、眉根を寄せて頬はパンパンに膨れ上がる。見る見る真っ赤になる顔の下では、親愛の情を込めて持ち上げられた手が青筋が浮くほどに握り締められ、肩が細かく震えている。
心配になって一歩近寄った時だった。足が折れたかと思う程の衝撃が走った。悶絶する痛みの中、少女に向こう脛を蹴られたことだけはわかった。
玄関前で蹲っていると、今度は俺の声――俺ではない一郎の声――がした。
「お、おい、大丈夫か?」
そう言ってこわごわ足に触ると異常がないことを確かめてくれた。しかし何も起こる気配はない。この時点で、こいつはホンタイではない。しかし、どの一郎かを気にしている余裕はない。
「あ、あの糞ガキは……」
今優先すべきは俺にこんな目を見させた悪い子のお仕置きだろう。一郎ははっとして立ち上がると門柱の方へと駆けていく。勝手に敷地内に入ってきて、勝手に出て行ったようだった。一郎もそこからどちらへ向かったのかわからないようで、左右を覗き込むようにしている。
見当たらなかったのかいったんこちらへ戻ってこようとした一郎の肩越しに伸びる手があった。
俺の家の正面には曲がりくねっているので死角が多い細い路地がある。そこから飛び出してきたのだろう。
「よう、戻ったぜ」
3人目の天場一郎だった。そいつは2人目をホンタイだと思っていたのか、肉体的接触を終えても統合が始まらないことを不思議に感じているようだった。そして、俺のことを見つけると、2人目に顎で「ホンタイはあっち?」と訊いている。2人目も俺がホンタイでないことを知っているので当然首を振って否定する。この人数が集まるのは珍しいなあなどと思っていると、2人目は俺の所に戻ってきた。俺がまだ痛がっているので気になったのだろう、足を見せてみろと言って触る。
と、そこに3人目の背後からまた一郎がやってきた。4人目はすぐ目に止まった3人目をホンタイと思ったのか、ポンと肩を叩く。しかし、一向に統合が始まらないので繰り返し肩を叩いて――
「痛ぇよ!」
3人目に怒鳴られた。
「あれ? お前何してんの? ホンタイは?」
そこまで言って、ようやくこちらの存在に気づいたようだった。だが、介抱という形で接触していてもそのままであることからどちらもホンタイではないことは即座に理解しただろう。
ここにいる全員が分裂体であることを少し気持ち悪く感じた。
他の3人もおそらくは同じ気持ちだろう。ホンタイ抜きで分裂体のみというのは初めてのことだ。普通ではない。一刻も早く普通の天場一郎へと戻ってしまいたいと望むのに肝心の鍵となる人物が現れない。その状況に心が毛羽立つ。
ゆっくりと一つ所へと集まっていく。だが分裂体がたとえ座標軸を同じにしたところで統合は起こらない。その事実へ目を背けて、俺は人数を今一度確かめていた。
1……2……3……4……5人?
4人目の背後からまたも新手の一郎が出現していた。今度こそホンタイだろうか。
「おい、どうしたんだ? さっさと統合しようぜ。今日は疲れた……よ?」
だが、そいつが発した言葉は何かがおかしい。5人目の手が4人目に触れた瞬間にその何かの正体が判った。
統合が起こらない。こいつも分裂体だ。なぜ5人目が?
「「「だ、誰だお前!」」」
一斉に上がる誰何の声。狼狽する正体不明の一郎。
しかし、4人ともを視界に収めていた俺には違和感があった。俺たちの声はよく似ているなんてもんじゃない。まったく同じだ。しかしそれも聞き慣れればある程度のことはわかるようになる。たとえば、同時に同じ言葉を発した人数など。
3人。3人しか5人目の登場に反応しなかった。一人は俺で、3人に決して入らないのは5人目だ。5人目はもしも状況が理解できているならば驚くことはない。そして事情を知らないのであれば、何がおかしいのかがわからないはずだ。
5人目が触れたのは4人目だけで、他の3人は少し離れて立っている。だから、この3人の誰かがホンタイであると考えるのが普通なのだ。
実際は、ホンタイどころか正体すらわかっていない異人が混じっていた。俺は、驚くべき場面で唯一驚かなかった人物を指差し問い質す。
「お、お前はだ、誰、だ!」
2人目の一郎は突然疑いの目を向けられ戸惑う。少なくともそう見えた。演技だとしたら大したものだ。存在し得ないお化けのくせに。
1.天場一郎が分裂するのは誰かに手を引かれた時だけである。
2.分裂した天場一郎は分裂元の天場一郎と接触することでひとつに戻る。
このルールは絶対だ。ついでに、今のところ俺たち分裂組が再分裂してホンタイとなったことはない。もしかしたらもっと複雑な条件によって再分裂するのかもしれないが。
今日の俺は最後に分裂した。その俺が知らない一郎なんて何がどうなっているんだ。
「あれ? 待てよ……」
よく考えると、分裂ルールを崩さずにこの状況になる方法はある。
話は簡単なのだ。
俺は自分が最後に分裂した一郎だと思っている。ここしばらく新しい分裂は起きていないからだ。
だが、たとえばソラ担当は自分が分裂したての時は俺というトナ担当が一郎の輪に加わることを知っていただろうか? トナとの出会いさえなかったタイミングで予期することは不可能だろう。
だから、既存の一郎に対して未知の一郎というのは存在しうる。それは新規に分裂した場合だ。確かに分裂は滅多に起こらないし、実際ここ最近は新しい一郎は出てきていなかった。だが、俺がそうであったようにいつかは起こってもおかしくない出来事でもあるのだ。
そして、それが今日でないと誰が決め付けられようか。
「そうか、お前も誰かに手を引かれたのか?」
もしそうならば、ホンタイがついさっきまで持っていた知識を引き継いでいるはずだ。いちいち説明する手間が省けて良い。しかし、そいつは自分のパートナーを紹介しようともせずに、どこか救いを求めるような眼でおろおろとするばかりだった。
「こいつ、新しい分裂体か?」
「彼女はどこ?」
俺の言葉を聞いてピンときたのか、さすがに経験者たちは鳴れたものでもう落ち着きを取り戻していた。それでも謎の新・一郎が黙ったままで一向に事態が進まないと不審の空気が満ちてくる。
「なんか説明してくれよ。別に無理に紹介しろってんじゃないからさ」
「どうせ統合で知ることになるしな」
「いや、言えない相手だったんじゃないだろうな……まさか男とか」
「それはちょっと……」
銘銘が好き勝手言っていると、ジャッと敷地内の玉砂利を力強く踏みしめる音がした。思いの外大きく響いたその音に意識を向けると、先ほど俺の脚を蹴って逃亡した金髪の少女が仁王立ちになっていた。
初めて見るはずの一郎たちも息を飲むような凛凛しい佇まいだった。
「ちょっと君、勝手に他人の家の敷地内に入るんじゃないよ」
こどもに対してと考えればきつすぎる物言いだったかもしれない。俺としてはこいつに恨みもあったが、今はそんなことを言っている場合でもないなと気持ちを入れ替えて追い返そうとした。しかし、少女は俺の声をスルリと抜けるようにして、新参の一郎へ歩み寄り、手に手を取って並び立ってしまった。
苦笑いを浮かべる男と、つんと鼻を高くしてちょっとおませな女の子。それは普通に考えて兄妹のようなほのぼのとしたツーショット。その片割れが俺たちと同じ天場一郎でさえなければ。
示し合わせたわけでもないのに、俺たちは一斉に何かいけないものを見たように目を逸らす。
「え? なんで? なんでそんな『もうこの場は見なかったことにしてやるからさっさと帰ってくれ』って雰囲気になっちゃってるの?」
戸惑う俺たちによく似た一郎っぽい人物と、期待した反応と違ったのか少し不満げな表情を浮かべる犯罪誘発率の高そうな可愛らしい少女。男が1歩を踏み出せば、俺たちが1.5歩退いて輪を広げる。
「ちょっと待って、おかしいからそれ! 俺、天場一郎! 君も天場一郎! ね?」
われながらちょっと気持ち悪い笑顔だった。
「いや、さすがにロリコンは引くわ」
「とても俺らと同じDNAを持ってるとは思えん」
「年齢差が少なければロリコンってわけじゃないと思うんだ」
ロリコン糾弾のセリフを聞いて鼻息を荒げたのは、予想外にも当の少女だった。
「なに言ってんのよ! アタシは21よ!」
「かわいそうに。こんな短時間であいつに何をされたか知らないが、正気を取り戻せ」
「……はい?」
ピクリと少女の宝石のような口元が引きつった。
「いや、別にそういう配慮は要らんのよ? とりあえず18以上って言っとけみたいな。でもそれ、現実じゃ通用しないから」
「…………本気で言ってるわけ? アタシに?」
少女の声が数段低くなった。珊瑚礁の穏やかな波頭のようだった整った眉が、日本海の荒波のように波打つ。
反応は隣にいた男が早かった。
「ちょっ、チサトさん落ち着いて……」
「チサト……?」
その名前に何か思い出せそうだったが……すぐに記憶の奥底へと沈没していった。
「誰だ?」
「お前知ってるか?」
「なんでお前らが知らんものを俺が知っている」
「あんたたちそろいもそろって、やっぱり忘れてるのね! あんたも! あんたも! あんたも! イチロー、あんただって最初そうだったでしょ!」
駄駄っ子そのものの地団駄を踏んで怒鳴り散らす。チサトという少女の分裂体は、このままじゃ収拾がつかないと思ったか、それとも自分に飛び火したのが面白くないのか、一歩進み出て口を開いた。
「いや、お前たちが知らないのも無理はないんだ。それと俺はロリコンじゃない」
「知らないんじゃなくて忘れてるんでしょ。大違いだわ」
忘れているというのは、一度は知っていたことを思い出せなくなる状態だ。普通、初対面の人間に対し使う言葉じゃない。とりあえず、俺たちは無視して話を続ける。
「お前は……一郎なんだよな?」
「ああ、別に整形してお前たちを騙そうとそういうことじゃないから安心しとけ。そんな誰の得になるかわからんようなことしねえ」
「なるほど、俺×俺詐欺の線は消えたか」
とりあえず今くだらないこと言った奴も無視しようと心に決めた。
「何か知ってるのか?」
「ああ、あいつはだな、あのロリ姉ちゃんだ」
そう言った途端、そいつの体はくの字に曲がる。沈む上体の向こうには足を振り上げスカートの裾を翻らせている金髪ロリがいた。そいつは蹴りの勢いで一回転、風圧に負けない求心力でひらひらとした布を細い体に巻きつけると傲然と言い放った。
「
チサト・ラボコフ。その異国の香りも持ち合わせた名前を聞いただけでは何も思い出さなかっただろう。しかし、「ロリ姉ちゃん」という呼び方と合わせると記憶の淵で化学反応が起きてしまった。路上の路に理科の理をロリと呼んで怒られたこと。自分と同じくらいの年齢だと思っていたのに実際はずっと年上だったこと。ある時期を境に姿を見せなくなったと思ったら、「カイガイリューガク」というものをしていると知ったこと。
その条件で当てはまる人物はたったひとりだった。
路理・ラボコフは天場一郎の幼なじみだ。ただし、甘酸っぱくほろ苦い思い出というよりは、苦くて臭くて酸っぱいだけの嘔吐物のような思い出だけが掘り返される。
だが、いくら血塗られたが曰くに彩られていたとしても、目映い輝きを失わない宝石は存在する。
そして、路理・ラボコフもそれと同系統の美しさを兼ね備えていた。異国同士の血を仲たがいさせず、それぞれが持つ美の精度を欠くことなく、さらに独自の美の原型にまで到達してしまった遺伝子の奇跡。何代にも渡って賞賛されることが約束され、子供にさえわかる美そのものを表した顔。
その思い出の顔と、今目の前にある顔がぴたりと符合する。
「ええっ! だって、いくらなんでもこんな……」
「ああ、余りにも変わらなくてわからない……そういうこともあるんだって俺は知ったよ」
「じゃあ、マジで21なのか? 当時の年齢があれだから……ああ、合ってるような気がする!」
「だって、『ロリってゆーな! アタシは大きくなったらすっごい美人になるんだから!』って言ってたのに……」
まあ、超絶的な美形女性であることは確かだろうけど。ただし、実年齢マイナス10くらいの年齢層での話で。
「『胸だってボンって育っちゃって、すごいんだから! たまらないんだから!』とかも言ってたような……」
ふっくらとした服装でも隠しきれないほどのペターンって擬音が聞こえそうな、別な意味ですごいことにはなってる。特定の趣味の人にはたまらないだろう。
「うう、暗黒物質が記憶の浮上を阻害する」
俺たちが何故かわからない涙にくれていると、
「安心なさい!」
本当に自信がありありと滲み出た宣言をチサトさんは繰り出した。
「初潮はきたから!」
むしろ身の危険を感じた。かくなる上はスケープゴートにすべて引き受けてもらう以外に手立てはない。
これは俺が悪いんじゃない。金髪の淫獣にうまうまと分裂を許してしまったお前の落ち度なのだ。
「とりあえずお前がロリコンだということはわかった」
「だから違うって! それにその言葉、自分に跳ね返ってくるってわかってんのか?」
「いや、お前は一度たりとも過去を振り返らず、チサトさんと新たな道を歩み続けるべきだ」
「統合させない気かよ。そんなの嫌だよ! あ、いや、そういう意味じゃなくてね、チサトさんと一緒に暮らしてたらなんか捕まりそうだなあと、児童福祉的な意味で。生理来たのも最近でしょ、チサトさん」
「まあ、待てよ。年年、初経を迎える平均年齢は下がってきていると言われているが、あくまで平均値であって、成人になってもまだという女性もいるんだ」
「初経年齢チェックしてるなんて、あきれたロリペディアね」
「……その響きはなんか嫌だな」
「幼児性愛大百科よね」
「生々しくなったような気がするよ」
「ペディクショナリー」
「そっちを取らないで欲しいんだが」
「ペドフィリア」
「あのー、あなた、自分で幼女だって認めるんですか?」
「あんたたちが理路整然としてないからでしょ!」
天場一郎は分裂する。
最後に断っておくが、この分裂に関してはこの短い物語の中ではなんの解決もしない。そういうものだと思っていただきたい。
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